大川 平三郎 おおかわ へいざぶろう
   

志在四海而尚恭倹
心包宇宙而無驕盈
志は四海に在れども 而して尚 恭倹(つつましく控えめ)
心は宇宙を呑めども 而して驕盈(分不相応の贅沢をすること)無し
31.5p×118.8p

万延元年10月25日(1860年12月7日)生〜昭和11年(1936)12月30日歿
制作年 昭和11年(1936)初夏 最晩年の作
川越藩三芳野村で剣道場を構えていた大川修三の次男として生まれ、櫻塘と号した。母は富岡製糸場を作った尾高惇忠の妹・みち子。惇忠やみち子の妹の千代は渋沢栄一の妻であったため平三郎は渋沢栄一の甥にあたる。祖父は江戸時代の剣豪で農民の出ながら武蔵国川越藩(埼玉県)の剣術師範となった大川平兵衛。
13歳で東京に出て渋沢栄一の書生として渋沢家の掃除など雑用をこなし、本郷の壬申義塾や大学南校(現在の東京大学)でドイツ語や英語、歴史を学んだ。
明治8年渋沢が設立した抄紙会社(後の王子製紙)に職工として入社。12年アメリカに留学し、製紙技術を習得、製紙法の発明改良に尽力し、専務となるが、三井財閥が王子製紙の株式を買い占めたため31年退社。
以後渋沢の援助で明治36年(1903)九州製紙を設立。以後、中央製紙、樺太工業などを設立。大正8年には富士製紙社長に就任、王子製紙と激しい販売合戦を演じ、一時は製紙王、大川財閥と呼ばれた。セメント、鉄鋼、ビールなど製紙業以外の事業にも進出。
昭和8年(1933)王子製紙による樺太工業、富士製紙の吸収合併後、経営の第一線から退く。
昭和3年勅選貴院議員。
「櫻塘」の下に、白文の「大川平三郎」、朱文の「櫻塘逸人」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/573.html?cat=33
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%B9%B3%E4%B8%89%E9%83%8E
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%B9%B3%E4%B8%89%E9%83%8E-1059855
http://www.city.sakado.lg.jp/24,6356,221,811.html


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